変わる/変わらない?
またまた間が空いてしまった。
ブログを更新するエネルギーがなかなか溜まらない。Hatena Blogの「記事を書く」をクリックしようとしても、手が止まる。やる気がないというか無気力というか、病んでいるのかもしれない。
さて、春になった。土曜日、近所の公園に行くと、近くの大学の新入生とおぼしき集団がキャッキャッと笑いさざめきながら練り歩いていた(サークルの新人歓迎バーベキューをやっていたようだ)。笑顔が青白くて子供のようで、買ったばかりの服がまだ体になじんでいない感じで、男女は親しく話しながらも、お互いの距離を測っているような雰囲気で。すれ違うとき、意識が過去をさかのぼって、四半世紀前の記憶がよみがえった。僕もまったく同じことをやっていた。あの頃は、未来のこととか何も考えてなかったな。心配もしていなかった。
最近、読んだ本。
東浩紀は『動物化するポストモダン』を読んで以来、気になる存在だったが……Twitterのつぶやきや、たまに見る動画サイトでの発言に興味を惹かれてきたものの、まとまった文章を読む機会があまりなかった。今回の本は僕個人の周囲でも評判が良かったので、そのボリュームにたじろぎつつも買って読んでみることにした。
過去11年に雑誌で発表されたエッセイをまとめた本。「批評」や「哲学」が現代日本の社会とどのように繋がるのか、ていねいに説明されている。とてもわかりやすく面白かったのだけど、個人的に刺さったのは一番最後の「あとがき」的なエッセイだった。
新進気鋭の若手研究者としてデビューした筆者は、充実した活動の日々を送りつつも、「他人が主人公の映画を見ているような」違和感を感じていた。その違和感が消えたのは、自らの活動の場として「ゲンロン」という小さな企業を立ち上げた後だった。筆者はこのことを振り返りながら、かつて内装会社を営んでいた祖父の影響を受けっていたことに気付く。幼い頃に出入りしていた祖父の会社で大人の世界を知ったから、「小さな会社で顔が見える客商売をすることでしか、生活の実感を得られないのだ」。
この本の本筋とは離れるけれども、子供の頃の体験は本当に「生き方」を形作るものだなと思った。では、自分はどうだろうか。分析してみたら、すぐに思い当たった。
おそらく自分は、兄に大きな影響を受けている。
昭和のホビーブームの直撃を受けて育った兄は、プラモデル、ラジコン、オートバイ、ロックバンド、バックパッカー、サーフィンと、あらゆる趣味をたしなみつつ大人になった。しかも、並外れて器用な人なので、すべてを水準以上に極めてしまう。プラモは筆塗り塗装でプロ並みの出来映え、エンジン付きのラジコン飛行機を飛ばし、河川敷でモトクロスに熱中していたと思ったらCBX-400に乗り換えるという調子。弟である僕は、当然憧れていたのだけど、おそろしく不器用なのでとてもマネができなかった。新しい趣味に挑戦しても挫折するばかり。
現在、兄は海の近くの街で家族とともに暮らし、毎週サーフィンを楽しむ生活を送っている。つい先日は、90年代の国産スポーツカーを入手して有頂天になっていた。(と書くとお金持ちっぽいけれども、それほどでもない。)
僕は無意識のうちに兄の生き方をなぞろうとしているらしい。でも、僕にはあの生き方が向いていないように思う。単純に、無理だ。そろそろマネするのをやめて、新しい生き方の「形」を見つける必要がある。本当に。
たまたま今日は、日本国民にとって節目となる日だった(その是非はともかく)。僕もこれから、変わるべきだろう。
終わった漫画家の終わり
ずいぶん久しぶりに、福満しげゆき先生の漫画を読んでいた。
福満先生の漫画をよく読んでいたのって、いつ頃だったっけ?と思い、ブログを検索すると、10年前の記事がヒットした。カフェでニヤニヤしながら、福満先生の『うちの妻ってどうでしょう?』を読んだと書いてある……本当に気持ち悪い。今日、まったく同じことをしてしまった(漫画のタイトルが違うだけ)。まったく進歩が見られない。
さて、福満先生の最新作『終わった漫画家』。このタイトルを本屋で見つけたとき、先生の自虐ギャグも行き着くところまで行ったかと、やや残念な気持ちを抱いたのだけど、この作品は意外にも「私小説」漫画ではなかった。福満先生は、冷静に自分自身と切り離した主人公を設定して、「売れなくなった漫画家」の漫画を描こうとしていたのだ。
あらすじ……
若い頃の漫画家デビュー作がヒットしてそれなりに成功を収めたものの、以降は鳴かず飛ばず。マイナーな雑誌に細々と連載を続けていたが、気が付くと40歳を過ぎて独身のまま……という主人公が、せめて結婚はしたいと女性狙いでアシスタントを募集。応募してきたのは、漫画家なら金持ちだろうと玉の輿を狙う100円ショップ店員と、プライドだけ一人前な漫画家志望の女子高生だった。
下心だけで集まった3人が、本音を隠しながら表面的な会話を交わすところがとても面白い。異常なほどネガティブな主人公と、不毛な青春時代がトラウマになっている美女と、プライドが高すぎて友達が一人もいない女子高生が、自分の(小さい)欲望を密かに抱きつつ、心にもない言葉でお互いを励まして協力しているうちに、いつの間にか1つの目標に向けてまとまっていく。
第2巻からとても面白くなって、3巻が出るのを楽しみにしていたのだけど、残念ながら全3巻で打ち切りになってしまった。この作品には他の作家には描けないであろう独特な面白さを感じていたので、まったく寂しい限り。福満先生ならではの「長すぎるあとがき」にも投げやり感があふれていて、無念だったろうなと思う。
エゴサーチが好きな福満先生なら、このブログを読むかもしれないので、書いておこう……次も、これくらい意欲的な作品を描いてください。楽しみにしております!
ふたたび、オーディオを買う
子供の頃、家の応接間には立派なオーディオセットがあった。アンプ、レコードプレーヤー、チューナー、カセットデッキが専用のラックに収まり、スピーカーも(サイズだけは)立派なものだった。
ただ、父がそこで音楽を聴くことはほとんどなかったように思う。ごくたまに、休日の夜にクラシックのレコードをかけていたが、そんなに熱心に聴いている風には見えなかった。おそらく、オーディオを買っただけで満足してしまったのだろう。趣味に関して、父はそういうところがあった。
そういう「カタチから入る」性格は自分にもしっかり受け継がれているようで、社会人になり立てのころ、秋葉原で単品オーディオを買いそろえて独身寮の部屋で聴いていた。
その頃はウィスキーをちびちびやりながらジャズを大音量で聴くという生意気なことをよくやっていた(狭い部屋だったが、防音だけはしっかりしていた)。週末に渋谷のタワーレコードに行き、数時間かけてCDを買ってきて、部屋でじっくりと音楽と向き合う時間は楽しかった。
転職や何やらがあってライフスタイルが変わると、だんだん集中して音楽を聴くことが少なくなった。CDを買わなくなり、ラジオも聴かなくなった。ここ数年は部屋で音楽を聴くことすら少なくなり、3年前の引っ越しで、ついに部屋からオーディオがなくなった。音楽は電車かクルマの中でしか聴かなくなった。
しかし最近になって、部屋で音楽を聴けないことが、だんだん寂しく感じるようになった。FMラジオも聴きたい。MacBookで音楽やラジオを流しても、スピーカーが貧弱すぎて物足りない。去年、東京に引っ越したのを機に、新しいオーディオを入れようと検討を始めた。
考えた条件は以下のとおり。
・コンパクトであること。フルサイズの単品オーディオ機器は男のロマンではあるが、場所をとるし、やたらと重いし、ホコリがたまるし、うんざりなのだ。
・iPhoneと接続できること。CDは全部実家に置いたままなので、当分の間、僕の音楽ソースはiPhoneしかない。無線で接続できるレシーバーアンプが必要。
・CDが再生できること。この頃は配信やハイレゾが主流になりつつあるが、まだしばらくはCDが必要だと思う。もちろん、これまで買い集めてきたCDも再生したい。
・FMラジオが聴けること。家事のBGMに。
・光デジタル入力があること。テレビの音声もよい音で聴きたいので。
・アナログ入力があること。将来的にはレコードを聴けるようにしたい。
悩みに悩んで、日本メーカーの小型コンポ数機種に絞り込んだ。オークションで中古品も探してみたが成果がなく、1月中頃、吉祥寺のヨドバシカメラに向かった。
最初に、第一候補のコンポを試聴してみた。もうこれで決まりと思っていたので確認のつもりで試聴したのだけど、いまひとつピンとこない音がする。これは違うな。じゃあどうしよう……。
ヨドバシの店内をさまよっていると、DENONのコーナーで足が止まった。DENONの小型レシーバーアンプと外国製スピーカーのセット販売が結構良い、というネットの書き込みを思い出したのだ。
ヨドバシでは、DENONのアンプとDALIのブックシェルフスピーカーをセットで販売していた。試聴してみると、バランスのよい澄んだ音がする。小さいスピーカーなのに、低音も出過ぎなくらい出ている。さすが定評のあるオーディオメーカー、良い音を出すなぁ。
よく見たら、昨年末に発売されたばかりの新機種「OBERON」だった。おお、最新スピーカーが安く買える!
心が大きく揺らいだところに、ちょうどDENONの販売員が通りかかった。10分後には、配送伝票に住所を記入していた。
古くさくて垢抜けない外観にちょっと抵抗があったが、DENONの人いわく「電源部分がしっかりしているのでパワーがあり、基本的な音質では最新機種よりも上」だという。はやりのUSB-DAC機能やWiFi機能は搭載していないが(Bluetoothのみ)、構成がシンプルな分、電源部にコストがかけられているらしい。
DENONの人にすすめられるままに(ちょっと)高級なスピーカーケーブルも購入し、帰宅。翌日の夜に、本体とスピーカーが届いた。早速、テレビ台に設置。奥行きが長すぎてテレビ台の中に収まらなかったのは誤算だったが、幅がスリムなので上に並べることができた。
音を出してみると、隅々まで澄み切ったクリアな音像が広がった。見慣れていた風景のもやが晴れて、遠くまでくっきり見渡せるようになったような、湖の濁りが消えて、船の上から水底まで見通せるようになったような、そんな感覚。最初に単品オーディオを買いそろえたときも、そういう感動があったことを思い出した。
しかし、どうにも気になったのが、低音が出すぎていること。バランスが崩れるくらいボンボンと響いている。スピーカーのエイジングが進めば治るのだろうか。
なんとなくレシーバーアンプの取扱説明書を読んでいるときに、原因が判明した。原因はスピーカーではなくアンプの方にあった。このアンプはDENON製スピーカーとのセット販売を想定して設計されているので、初期設定では、DENON製スピーカーに合わせて音が最適化されているのだ。メニューでこの最適化をオフにすると、過剰な低音がなくなり、バランスが良くなった。
この設定に気付かずに使い続ける人も少なくないのではないか。思わぬトラップだった。
『獄友』
だいぶ書くのが遅くなってしまった。11月25日の話。
『獄友』と書いて「ごくとも」。日本の冤罪被害者を描いたドキュメンタリー映画を観た。
監督の金聖雄さんは、冤罪を扱った映画をこれまで2本制作し、これが3作目とのこと。僕はまったく知らなかったのだけど、友達がこの作品に共感し、今年の春からボランティアとして支援活動をしていた。
地味な題材、そしてドキュメンタリーということで、当初は上映される機会も少なかったと思うが、支援者たちの努力の結果、都内各所の公民館で上映会が開催されるようになったようだ。
僕も最初はさほど興味がなかったのだけど、その友達があまりにも熱心に頑張っているので、観てみたくなった。ちょうど、家から自転車で行ける距離の市民ホールで上映会が開かれたので、友達からチケットを買い、観てみることにした。
登場するのは、5人の冤罪被害者。昭和の名だたる冤罪事件に巻き込まれ、17年から48年もの間、何もしていないのに刑務所に閉じ込められた人たちだ。
冤罪被害者を救済する活動のために集まる彼らは、お互いを「獄友」と呼び、適度な距離を保ちながら支え合う。失われた時間を嘆くのではなく、取り戻した人生を前向きに生きようとする姿は、意外なほど明るいのだった。
驚いたのは、5人のうち2人が、釈放後に結婚していたこと。なんとなく、冤罪被害者というと「人生を破壊された人たち」というイメージがあったのだけど、めげずに新しい人生を立ち上げた人もいるのだ。
中でも印象に残ったのは、1967年に発生した「布川事件」で犯人に仕立て上げられた、桜井昌司さんの話だった。
絶望的な状況の中で、「不運と不幸は違う、不運であっても幸せになれる」という信念を貫き、29年も続いた獄中生活でも100%幸せに生きることを目指した。刑務所の文化活動として楽器の演奏を覚え、詩を書き、曲を書いた。釈放後もその信念を貫いて、家族を持ち、家を建て、ついには獄中で作詞作曲した曲を集めてCDデビューを果たした(さだまさし風、歌もけっこう上手い)。
もちろん、刑務所の生活は精神的にもきついもので、前向きばかりではいられない。29年も閉じ込められたら、どんな人でもおかしくなる(釈放後も数年間は衝動的に家の外に飛び出しそうになったそうだ)。ただ、他の受刑者とは決定的に違う点があった。それは「やっていない」こと。
「やった」受刑者は、被害者が夢に出てくるなど、良心の呵責に苦しめられている人が多かったという。何も「やっていない」ぶん、まだ楽だった、ということらしい。
もっとも、桜井さんのように強い精神で人生を歩んでいる人だけではない。自由になった後で、生き方に迷っている人もいる。病気で亡くなった人もいる。そして、死刑囚として半世紀も獄中に捕らわれて、心が壊れてしまった人もいる。この映画は、この国で起こっている冤罪がどんな結果をもたらすのか、ありのままに描いている。
冤罪は醜く、恐ろしい。今も獄中で苦しんでいる人たちが、一刻も早く解放されることを願う。
『君の話』(三秋縋)
作者の三秋縋(みあきすがる)は、最近若い人に人気の気鋭の作家らしい(おっさん的な認識)。まったく知らなかったのだけど、友達から最新作を貸してもらった。
その友達は、とても面白い小説だと太鼓判を押す一方で、「今説明はしないから、とにかく読んで、感想を聞かせて欲しい」と、何か言いたげな顔をしながら本を貸してくれた。
読んでみて、納得した。確かにこれは「説明できない」小説だ。どう説明してもネタバレになってしまう。小説の構造自体が独創的で、その構造に命がある小説なのだ。冒頭から結末までが、絶妙なバランスを保って成立している(ただ、よく見るとアラもある)。一部分を抜き出して説明しても、この小説の特徴を表現することができない。
なので、僕がとりとめもなく考えたことを書くことにする。
『君の話』というタイトルを見たとき、もちろん、あの大ヒット映画を連想した。この小説がYour Storyなら、Your Nameの映画。作者がそれを意識していたかどうかは知らないが、この小説はあの映画をまるっきり裏返しにしたような感じがする。
あの映画が嫌いな人は、この小説が気に入るかもしれない。正統派の恋愛ストーリーに対する痛烈な皮肉、とも読めるから。しかし同時に、究極の恋愛を描いているようにも思える。登場人物の行動を冷静に眺めてみると、恐ろしく利己的で残酷なのだが、じっくり考えてみると、それが「悪いこと」とは思えなくなってくる。恋愛って何だろう、信頼って何だろう、人を好きになるって何だろうと、わからなくなってくる。そういう、読み手の価値観を試すような、優れた作品だと思う。
あと、これは変則的な時間SFである。といっても、タイムマシンは登場しない。タイムマシン(あるいは同じ効果をもたらす超常現象)を一切使わずに、過去を改変して現在を書き換え、美しくも苦しいロマンスを描くという、技巧的な小説なのだ。SF好きなら一読の価値があると思う。
まあ、僕の考えなど、どうでもいいことで。シンプルに、1ページ目を読み始めたら止まらなくなる、面白い小説なのだ。
アキちゃん
まずい、ブログの更新が滞りすぎている。何か書かねば。
今日のお昼過ぎ。電車で出かける前に少し時間があったので、駅前のパンカフェに入り、メンチカツサンドを囓りつつiPhoneでブログ記事を書き始めた。南向きの窓から冬の日差しが差し込んで、気持ちの良い昼下がり。店内は、軽食をとろうとする人たちで賑わっていた。いつもは老人ばかりのこのカフェも、珍しく若い人が多い。
右隣のテーブルに20代前半と思われるカップルがやってきた。テーブルに飲み物を置いて(この店はセルフサービス)席に着くと、男の方がやおらスマホを取り出して女の顔を写真に撮った。その後、ふたりで写真を見ながらイチャつく→また写真を撮る→イチャつく、を繰り返し始めた。せっかくのコーヒーとミルクティーが冷めちゃうぞ、と要らん心配をしていると、左隣のテーブルから変な会話が聞こえてきた。
「アキちゃんって、キノコとりんごしか食べないんだよね」
えっ?
左のテーブルには、小学3年生くらいの女の子とその母親が座っていた。とくに注意を払っていたわけではないので、その前にどんな会話をしていたのかはわからない。突然、妙な言葉が聞こえたので、急に聞き耳を立ててしまった。
母親「アキちゃんって、キノコとりんごしか食べないんだよね」
女の子「そうだよー」
母親「全然トイレに行かないんでしょ。すごいわね」
女の子「んー、たぶん見てないときに行ってるんじゃないかな」
母親「こないだなんかさ、ハチに3回も刺されたんでしょ。それで次の日には平気で出てきてるじゃん。すごいと思わない?普通さ、ハチに1日3回も刺されたら次の日は寝込んじゃうよ。すごいわねー」
「アキちゃん」とは何者だろう? いや、そもそも人なのだろうか。キノコとりんごだけで人が生きていけるとは思えない。ウサギとかヤギとか、小学校で飼われている草食動物を指しているのかもしれない。しかし、母親はどうも人間のことを言っているように思える。トイレに行かないことが、なぜすごいのだろう。ハチに3回も刺される状況もわからない。
気になりすぎたので、さりげなくも必死で会話を聞き取っていたが、「アキちゃん」の正体はつかめなかった。アキちゃんちは家に収納を取り付けた、とかなんとか母親が言っていたので、恐らく人間なのだろう。パンを食べ終えると、親子はすぐに出て行ってしまった。
僕の頭の中に残されたのは、人とも獣ともつかない異形の姿をした「アキちゃん」のイメージだった。
『変身のニュース』
10月初め、何も予定がない雨の休日。部屋にいるのも飽きて、外に出た。とりあえず、吉祥寺に出てみるか……と電車に乗ったはずが、三鷹でなぜか特快に乗り換えてしまい、そのままビューンと中野まで運ばれた。
ホームに降りてしばらく呆然としていたが、ふと、夏に中野に来たときのことを思い出し、中野ブロードウェイの「まんだらけ」に足を運んだ。
夏。ある漫画家の個展がこの中野ブロードウェイで開催され、見に来たのだけど、最終日の夕方だったせいか大入り満員、門前払いされてしまった。仕方なく、「まんだらけ中野本店」に(15年ぶりに)入って、レアな古本漫画たちを眺めていた。そのうちに残念な気分も薄れて、新しい漫画を探したくなった。
奥に行ってみると、聞いたこともない漫画家の作品が面出しされて並んでいた。担当者の熱意がにじみ出た棚作りに好感が持てた。試読用に、部分的に読めるようにラップされた漫画も置かれていた。そのときに手に取ったのが、宮崎夏次系の作品だった。
試読できたのは、「尾瀬」という短編作品だった。自由かつ繊細な線で大胆に描かれた絵と、シュールなストーリーが印象的だった。そのときは、ふーんと思っただけで、そのまま棚に戻して買わなかった。
ただ、その短い漫画の余韻がなかなか頭から去らなかった。何よりも不思議だったのは、一度も読んだことがないはずなのに、以前に読んだ記憶があることだった。よく、ありふれた作品を指して「既視感のある作風」などと言ったりするけれども、そんなレベルではなくて、その作品自体を読んだ感覚があるのだ。
漫画のデジャヴなんて、あるだろうか。それとも本当に読んだことがあるのだろうか。ずっと気になっていた。
そんなに気になるのならAmazonでポチして購入すればよいという話だが、作家名を忘れていた上に、短編のタイトルも間違えて覚えていた(「尾瀬」ではなかった)ので、探しようがなかった。もう一度あの棚に行けば、きっとわかるはずだ。
しかし、その棚の試読コーナーはなくなっていた。あれから2か月も経ったのだから仕方ない。がっかりしつつも、棚の間をうろうろしていると、見覚えのある絵を見つけた。相変わらず、宮崎夏次系はおすすめ作家として並べられていた。
あの短編を再読しようと思い、前回試読した短編集を買った。気分が良くなって、全然知らない漫画家の単行本も何冊かジャケ買いした。
次の週、土曜日の午後に近所の喫茶店でその短編集を開いてみると、また間違えていたことに気付いた。最初に試読した短編集とは違う、別の作品集だった。再びがっかりしつつも、まぁ同じ漫画家だから大して変わらないだろうと、気を取り直して読み始めた。
不思議なことに、その作品集の中にも「読んだことがある」短編がいくつかあった。そして、妙に深い余韻を感じさせるのだった。
奥付で初出を見てみると、2012年に「モーニング・ツー」という月刊誌に掲載されていた。この雑誌は読んだことがないはず。僕はこの既視感について考え始めた。
まず、特徴的な絵柄。なんか「ガロ」っぽいなと感じていたが、よくよく考えてみると、佐々木マキの絵に似ている。乾いたタッチで、大胆にデフォルメしたキャラクターが描かれているところなど。5年ほど前に佐々木マキの作品集を読んだときの記憶と結びついたのかもしれない。
シュールなストーリーも、佐々木マキと似ている。ただ、佐々木マキほど前衛的で難解はなく、多くの人が共感できるような、生きることの痛みや喪失感が描かれている。自分が何者かを掘り下げようとする登場人物の姿は、むしろ佐々木マキが挿絵を描いた村上春樹の短編小説に似ている。乾いた雰囲気は安部公房の作品にも似ている。要するに、僕が好んで読んできた小説と共通するエッセンスがある。
あと、いくつかの作品を通して読んで気づいたのだけど、自分自身が若い頃に書いていた小説とちょっと似ている。学生のとき、同じ同人誌で書いていた友達に「君の小説は全部こういうパターンだ」と指摘されたのだけど(具体的には恥ずかしいので書かないが)、その特徴がこの作品集の漫画にも少し見られる。
プロの作家に対してこんなことを書くのは非常に厚かましい話だけど、僕の中にある物語の「原型」みたいなものが、宮崎夏次系の作品が内包している「原型」とオーバーラップしているのかもしれない。それが、既視感の正体なのだろうか。
これほど「個人的に」に響いてくる漫画は、今まであまり出会ったことがない。他の人に勧められるかというと、ちょっと自信がないが、とにかく「個人的に」は、とても魅力的な漫画だった。
ただ、調子に乗って次の作品集も入手して読み始めたら、暗い話ばかりで気分が落ち込んでしまった。入り込みすぎても良くない。少しずつ読み進めようと思う。