『全日本貧乏物語』

赤瀬川源平、逝去…の報道をきっかけに、昔買った単行本を引っ張りだして、つらつらと読んでいた。 

「貧乏」をテーマに、さまざまな作家の文章を集めたアンソロジー(絶版)。20年ぶりぐらいに読み返してみると、出版された「1991年」という時代が意外と色濃く反映されているのに気がついた。バブル景気が絶頂を迎えた後、終わりの気配が漂い始めた時期。渡辺和博マルビマル金の人)のヘタウマイラストと、篠原勝之(ゲージツ家の人)のカタカナ多めエッセイに、バブルの残り香を感じる。

巻末に、選者の赤瀬川源平による解説がある。軽妙洒脱で面白い文章なのだが、今の視点で読むと、ちょっと大丈夫かな?と思う。

曰く、金持ちは満ち足りているから何も考える必要がなく、書く材料が発生しないから文章を書けない。一方、貧乏人は世の中全体が敵に見えるほど追い詰められており、四六時中、何かを考え続けている。しかし、貧乏なので文章を書く余裕がない。優れた文章が書かれるには、貧乏→金持ちの「成り上がり」か、金持ち→貧乏の「没落」が必要である、と。以下は結びの一節。

ながながと書いてきたが、貧乏は人間の文化的な意識の温床である。文章の実現には貧乏からの脱却が必要であるといっても、やはりその貧乏がなければ何ごともはじまらない。万一改革が進み、この世から貧乏の一切が消えたとすると、そのとき人間は文化的な意識の終焉を迎えるのである。

この趣味的に貧困をとらえる感じ、なんと楽観的なんだろう。貧乏が身に染みているはずの赤瀬川源平でさえ、あの時代は浮かれていたんだなと思う。 

この文章をむりくり今の時代に当てはめて考えるとすると、現代の格差社会には「文化的」エネルギーが秘められていることになる。今後、日本の景気が回復していけば、素晴らしい才能が世に出てくるのだろうか。

何か、とんでもないヤツが出てきそうな気もするが…