再読 − フィリップ・K・ディック『死の迷路』

ディックのSF小説にハマったのは、大学生の頃だ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』から始まり、市民図書館に置いてあった文庫本を片端から読んでいった。

高校生のときに愛読していたのは、レイ・ブラッドベリだった。あの暖かい幻想と狂気の世界に魅せられていたのだけど、大学生になると、ディックの小説に満ちている人間臭さ、力強さに強く惹かれるようになった。ダメ人間が不条理すぎる状況に追い込まれて、絶望して、のたうち回りながら、生きる意味を見出していくような、そんな小説ばかりだった。

『死の迷路』は、その頃読んだ中でも特に強く印象に残った作品だった。

人類が遠い宇宙に進出した未来。うだつの上がらないダメ人間たちが、謎の命令を受けて無人の植民惑星に集められる。しかしそこには誰もおらず、何の指示も与えられない。まったく協調性のない登場人物たちがぶつかり合いつつ、なんとか協力して脱出しようとするのだけど、何者かによって1人ずつ殺されていく。

砂漠の真ん中に巨大なビルが建っていたり、なんでも質問に答えてくれるゼリー状の知的生命体が出てきたり、普通に神様が登場したり(この小説の世界には「神」が実在する)、奇怪なイメージが何とも魅力的なのだ。

ディックの小説にしては珍しく(?)、この作品にはきちんとしたオチというか結末が用意されている。内容は無茶苦茶なのに、なぜかまとまった印象がある、奇妙な小説だ。

大学生の自分が読んだのは、1989年に東京創元社が出版した文庫本だった。後になって再読しようと探したのだけど、絶版になっていた。それを最近になって、ハヤカワ書房が再文庫化。書店でそれを見つけた僕は、迷わず購入した。20数年ぶりに再読。

でも、読んでいる間、何か違うなという違和感をぬぐえなかった。訳者は東京創元社版と同じ山形浩生さんで、訳文も同じはずなのだけど。というか、同じだから違和感があるのか。すこし古くさいし、セリフの訳し方にクセがある。でも翻訳自体のクォリティは素晴らしいと思う。最近の、1ページ読んだだけで本を投げたくなるような、ひどい翻訳とは大違いだ。この違和感は、20年のうちに熟成された自分の記憶とのズレから生じているのだろう。

 

今回の読後感は、ハタチそこそこで読んだ時とはまるで違った。もちろん、結末を知っているから驚きがないせいもあるけど、主人公がその選択をしたことに対して感じたことが変わった。

「何もかも失って、むき出しの自分だけが残ったとき、何を望むのか」。善悪も、価値も、人間関係も何も考えず、たった一人の人間として心から望むものは何なのか。それを今の段階で考えて、受け入れることが、すごく大事なんじゃないかと。

学生時代、大学の近くにあったピザ屋バー(焼きたてピザを食べながらカクテルを飲めるお店)で、友達と酒を飲みながら、この小説の結末について熱く(一方的に)語ったことがあった。当時の自分は、その結末の「意外性」に強い印象を受けて、その技巧性みたいなものにやられていたのだけど、カウンターの向こうで黙って話を聞いていたバーのママさんが、突然話しかけてきた。真面目な優しい目で、「あなたたち、すごく良い話をしているわね」と。陽気で、さっぱりした性格のママさんだったので、そんなことを言ったのがとても意外で、戸惑ってしまったのをよく覚えている。

大震災の後、ママさんは病気で亡くなり、ピザ屋もなくなったと聞いた。それから長い月日が経った。今、再読してみて、あのときのママさんがどんなことを感じていたのか、なんとなくわかった。

あれから、約四半世紀。自分も、ちょっとは成長できたらしい。

 

死の迷路 (ハヤカワ文庫SF)

死の迷路 (ハヤカワ文庫SF)