「生きもの」から「食べもの」へ
罠猟では、いつ獲物がかかるのかわからない。しかし、獲物がかかったら、できるだけ早くトドメを刺してやる(トメサシと言う)必要がある。それは、ワイヤーに脚を締め付けられる苦痛が長引かないようにしてやるという倫理的な理由もあるし、罠から逃れようと暴れた獲物が事故死すると肉の質が落ちるからという実用的な理由もある。だから罠猟師はほぼ毎日、罠を見回る。
今回シカがかかったのはタイミングでは、僕は罠にかかったシカを現場で見ることができなかった。ただ、現場に行った猟師の人が写真と動画でその様子を伝えてくれた。
罠に脚を取られ、弱々しく地面に伏せるシカの姿は、画面で見ているだけでも胸が痛くなるような哀れさがあった。猟師が近づくと、シカはピイピイと鳴きながら逃れようとする。
「トメサシ」の方法はいくつかあるが、この会に参加している猟師はできるだけ獲物の苦痛が少ない(なおかつ肉質を落とさない)方法を選んでいる。すなわち、棍棒で軽く頭をたたいて(強く叩くと頭蓋骨が割れてしまう)失神させた後、素早く首にナイフを入れて動脈を切り、失血死させるという方法。
動画の中で、生きているシカが命を失う様子を見た。「生きもの」が、数分後には「モノ」に変わる。なんとも複雑な気分だった。
後日、僕はそのシカの解体作業に参加した。内臓を抜かれてぶら下がっているシカは、完全に「モノ」だった。悲しくも、怖くもない。
ただ、目だけは別だった。相手がモノであるとわかっていても、目だけは命を感じる。本能的な感覚なのだろう。真っ黒なシカの目を見ていると、心がざわざわする。
その日参加したのは、解体が初めての人ばかり。猟師の指導を受けながら、皆で苦心して皮をはぎ、肉を部位ごとに切り取っていく。その時点になると、僕はそれを「食べもの」として認識していた。
最後に参加者で肉を分け合って、解散となった。僕は尻の部分の肉をもらった。
翌日の夜、僕は家でその肉を調理して、ステーキを作った。ネットで見つけたレシピを参考にした。
肉は柔らかく、とてもおいしかった。シカ独特の臭みも、ソースに使った赤ワインによって上手く抑えられていた。
自分の手でやったわけではないけれども、「生きものを捕まえて食べる」という行為を実際に体感することができた。
狩猟は、野生動物を殺すという残酷な行為であるとして、よく批判されるし、僕も以前はちょっと怖いなと感じていた。でもよく考えてみると、野生の生物を捕獲して食べることは、日本ではごく普通の行為だったりする。魚である。
日本で魚を食べない人は少ないし、漁業に関わる人、釣りを趣味とする人は無数にいる。テレビ番組では、生きた魚に包丁を入れて「さばく」シーンがモザイクなしで放送されるし、それが残酷だと抗議する人もいない。一方で、もしテレビでシカをトメサシするシーンを放映したら、ネットが大炎上するだろう。
この違いは何なのか。まだ、考えがまとまらない。