地震のあとで

阪神淡路大震災から20年の昨日。ジムのトレッドミルで走りながら、TVで震災追悼式典の模様を見ていた。

ぼく自身の体験は、震災5年目にまとめた手記があるので、興味がある方はご覧ください。 

地震のなかで……

20年も経つと、当時の記憶は薄れて、「阪神大震災」という歴史の一部になりつつある感覚がある。東京暮らしが長かったせいもある。今年は十数年ぶりにこの日を西宮で迎え、震災というトピックが当たり前のように大きく取り上げられていることに改めて「地元なんだな」と感じた。東京にいると、1月17日という日付に特別な意味はなくなったような雰囲気だった。とくに、あの3月11日以降。

逆に、3月11日という日付に特別な意味を感じる人は、こちらでは少ないだろう。日付を聞いただけでヒリヒリするような記憶がよみがえるのは、現実にそれを(何らかの形で)経験した人だけだから。メルトダウンの後、こちらの友達から「なぜ東京から逃げない?」と聞かれたり、「放射能が怖いから東京に行けない」と言われたりした。現実には、それほどの危険性はなかったのに(リスクはあったが、すべてを捨てて逃げるほどではなかった)。

この距離感が、いつも気になる。

悲惨な災害現場と、それをTV中継で眺めている自分たちとの間には、ものすごい距離がある。近いように思えても、まったく断絶している。TVを眺めながら「大変だよね、気の毒だよね」と言っている自分たちは、なぜか無根拠に自分は絶対安全だと勘違いしてしまう。それが自分に降りかかるその瞬間まで、その勘違いに気付かない。場合によっては勘違いしたまま行動して、危険な目に遭ったりする。これは人間の性質的なものだから、避けられないし、仕方がない。

そういう勘違いしがちな自分のために、備えておくべきだろう。

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子供の頃のボーイスカウトの教えが、今になって輝いて見える。