土屋政雄さん講演会

友達に教えられて知った、翻訳家・土屋政雄さんの講演会。この人は、かのノーベル賞作家「カズオ・イシグロ」の作品を翻訳したことで知られている。あわてて申し込んだものの、希望者多数のため抽選となり、落選してしまった。

ところが直前になって電話がかかってきて、キャンセルが出たため参加可能になりましたというお知らせが。三連休に何も予定を入れてなかったので、喜んで参加することにした。

7/14。30℃を超える灼熱の中、太陽に焼かれながら自転車をこいで、武蔵野プレイスへ。4階の大きな会議室に、たぶん100人くらいの人が集まっていた。

登壇した土屋さんは、生真面目な風貌ながら、話し始めると率直かつユーモラスな語り口で、面白い人だった。まず、翻訳家になったきっかけから話し始めたが、学生運動全盛期の混乱の中で社会から「はみ出して」この世界に入ったというのは、この世代の翻訳家に共通する特徴なのかもと思った。

東京オリンピックの後、雨後の筍のごとく急増した翻訳会社から誘いを受けてフリーランス翻訳者の道を歩み始めた土屋さんは、後に○○○社のコンピューターのドキュメント翻訳を直に引き受けるようになって、経済的にも安定するようになった。この頃はまだ翻訳者が少なかったから、かなり儲かったと思う。

子供が生まれたことを契機に?、仕事の幅を広げようと考えていたところに、たまたま海外ノンフィクションの翻訳依頼が舞い込んむ。数か月かけて訳して出版したものの、あまり売れなかったが、1年ほどしてその本のテーマに関連する政治事件がたまたま起こった。にわかに脚光を浴びる結果になって、本も増刷を重ねた。それを足がかりに、本格的に出版翻訳の道に入り、実用書を中心に翻訳のキャリアを重ねていく。

言語の幅を広げようとフィンランド語教室に通い始めたところ、クリスマスパーティーの福引きでたまたまヘルシンキ行きの航空券で引き当てる。その旅行中、たまたま手に取った雑誌に載っていたのが、イギリスで最も権威のある文学賞であるブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの記事だった。興味を引かれ、翻訳してみたいと思いながら帰国したところ、なんとそのカズオ・イシグロの本を翻訳してみないかというオファーが舞い込んだ。それは、第一候補の翻訳者がたまたまオファーを断ったからだった。その作品『日の名残り』の訳書が高く評価され、文芸翻訳家としての地位を確立することになる。

……という経歴なのだけど、本当に「たまたま」が多い。土屋さん自身も、冗談めかして運の良さを語っていた。

でも、単に幸運に恵まれた人、というわけじゃないと思う。恵まれた環境に安住することなく、新しい分野にも積極的に取り組み、チャンスがあれば臆することなく挑戦するというメンタリティがあるからこそ、幸運をものにできるのだ。さらにその幸運を自分の成長につなげて、さらに新しい可能性を追求する。飄々とした人だったけど、人生に対する熱量は相当なものだなと感じた。

最後に、土屋さんは面白いデータを紹介してくれた。外国語の原文とその翻訳(英語→日本語、仏語→英語など)を純粋なデータ量(.txt形式)で比較すると、ほぼ同じになるというのだ。土屋さんが紹介した事例では、原文に対する訳文のデータ量の比率はおおむね90%〜110%の範囲に収まっていた。だから、原文と訳文のデータ量に大きな差があれば何か問題があることがわかる。

また、同じ翻訳者が長編小説などの長文を訳す場合、同じ人間が全部訳すのであるから、各章ごとの原文・訳文比率はほぼ一定になるはずである。しかし、実際に調べてみると結構ばらつきがある。これは、作業した日によって体調や集中力が変わるから、その影響が出ていると考えられる。だから、土屋さんは毎日のように数日分の作業分を見直して、手を入れるそうだ。

何かと高尚なものと思われがちな翻訳を、ここまで即物的にとらえるとは。柔軟な発想と実践的なアプローチに、とても刺激を受けた。